感想。

東京オペラシティギャラリーで行われているヴォルフガングティルマンズ展にでかける。
新宿まででて、京王線で初台までのりかえ、駅からオペラシティまではスムーズにつながっていた。ビルの一部のような美術館。ひっそり。
小さなチケットカウンターでチケットを購入し、入場。入り口付近では、チケットが他の絵画展と込みの値段だということに文句をつける男性が。そんなこと言うなら入らなきゃ良いのにと思い入場。
ティルマンズの展示って実は、身体の夢展の時にみていたんだけど、本腰を入れてみるのは、はじめて。
身体の夢展の展示は、何の額装もないうすーい写真をランダムに展示したものだったと記憶している。
まずはいると、小さな部屋、ほとんどの作品は額に入ってはおらず、シールでとめてあったり、クリップで挟んでの展示。
シリーズで撮っている作品もあるんだけど、あえてばらして展示している。インスタレーション
僕がこの展覧会のキーになっていると思うのはフライシュヴィマーと名付けられたシリーズ。比較的作品自体も大きいし、スナップっぽい、日常っぽい、作品の中では浮いている。このシリーズは、特殊な効果を用いた作品で、抽象的な線と、色だけで構成されている。
抽象化された写真というと、トーマス・ルフの「基層」シリーズを思い出してしまうが。それがもつようなこってりとした質感ではなく、透明感というほどのすがすがしさはないが、いくぶん軽い感じはする。
このフライシュヴィマーを見た後に他のスナップ写真を見ると見方がかわってしまうという現象が起きる。
抽象的な構成のみの作品を見る目でスナップ写真をみてしまうのである。
カギ束の写真、散乱した靴下、重ねられたシャツ。それらは、現実の持つ意味をはぎ取られ、抽象的な構成として知覚される。
単独で写真を見るという行為とは別の経験がここにはあると感じられる。
圧巻なのは、一番巨大な最後の展示室に入った瞬間。
大小さまざまな、色とりどりの、散乱した、写真達が同時に目に入る。
そこには、写真の構成が生み出した、もう一つの作品、雰囲気があるように感じられた。
個々の写真自体が意味を持ち、それが総体として見たときにも意味を持つ、そんな気がした。
美術館に写真を展示する、その意味が十分考えられている。
最後の展示室にはいって、写真を見ていくと、写真家の中平卓馬さんに遭遇してしまった。
そのせいで、展示を見るペースが狂わされてしまった。
展示を見るのを一時中止して、中平さんが、どの写真を、どう見るのかに注目することにした。
中平さんは、「あついね」とつぶやいて上着を脱ぎカメラを方からおろし、中央のイスにおくと、一枚一枚の写真をじっくりと、なめるように見ていった。
その見方は、ぼくのそれとは、明らかにことなっていた。
僕が、写真や室全体の雰囲気や空気を感じるように作品を眺めていたのに対し、中平さんは一枚一枚に注意を注ぐ。
これは、友人の写真家の見方にも近いかもしれない。
写真家は、写真自体が気になってしまうものなのだろうか。
僕が思うに、この展示の本質は、その空気感だとおもう。ティルマンズの写真が生み出す空気。それを感じるには、じっくり見ることではなく、ふらりと漂うように見るのが一番だと思った。でもどちらがよいとはいえない。
どちらも写真の見方だから。
ぼくが中平さんと一番近くになったのは、コンコルドの写真の前だ。中平さんは、その中でも、コンコルドが一番大きく写った写真の前に行き、機体の輪郭の曲線をなぞるように、指で追って頷いた。ぼくは、その横に立ってじっとそのようすをみていたのだけれど、中平さんは、全く気にもとめず、僕の前を通っていった。
中平さんのこだわりってのは、被写体のもつラインとか、被写体自体にあるのかもしれないとその時に思った。
そう考えると、ぶれ、ぼけではない、今のカラー写真を理解できそうだ。中平さんの写真を、今思い出したんだけれど、同時に、保坂和志の小説が思い浮かんだ。連想作用。
よく考えてみると、この二つの作家のやろうとしていることは似ているかもしれない。保坂さんの試みってのは、小説の中の登場人物が何も象徴しないこと。
中平さんの写真もそう見える。しかしあくまでもそう見えるだけであって、実際にそうかという問題はあるのだけれど。
その問題には答えはないな。

ぼくは、同時開催の、入り口でおっさんがごねていた、絵画展を見てから、もう一週ティルマンズ展をみることにしようと思い、二階に昇り、絵画展をぐるりと見ていった。
空想建築絵画。でも、ノスタルジック。未来的じゃない。
ここでは、絵画展には、あまり言及しないけれど、この絵画展を見ることで、ティルマンズ展を深く考えられるようになることは確か。
写真と絵画。絵画と写真。
これをみて、文句をつけるなんてなぜだろうなあと思った。
たぶん、対象を見ることだけを目的としていて、その背後にあるものや、それの持つ意味、写真とはなにか、美術とはなにか。深く考えるという気持ちがないのかなあと思わざる終えない。
ぼくは、この絵画展を見て、ティルマンズ展を見ていただけでは気付かなかったコトに気付かされたし、逆に絵画だけみていては気付かないことにも気付かされた。
畠山直哉がいうように、二つの対象があってはじめて判断が下せるのである。
ぼくが、気付いたのは、二つのシンプルなこと。
写真は、被写体を撮った後に、自由に大きさを変えられるということ。絵画からは、時間までも起想されてしまうこと。
それが、重さになる。
そんなことを考えながら、もう一週ティルマンズの展示を逆回りにみていくと、最後に大きい展示室をもてくるというストーリーは、わかりやすいけどせいこうしているなあと思い、外に出た。