映像について

田中功起展や、
その他の映像作品をいくつか見て、
映像作品の見せ方とか、内容について、
いくつかアイデアが浮かんだ。
まず田中功起の作品は、非常に短い。
グラスに水が注がれる様子、ビニル傘が風で飛ばされる様子、
扇風機にタオルが巻かれ回転している様子、
食器洗い用洗剤の口から泡が出てくる様子、など。
それぞれ、一分強くらい(正確にはわからないけど)のものをつなげて
ループ再生していた。
そして、それらの映像に特に意味は見出せない。
そして、映像のつながりの意味も特に見出せない。
この意味を見出せないって所と、意味を見出せないでも
映像に見入らせる事ができるという事が重要な気がする。
僕が、今まで色々な映像を見てきた中で、
ちゃんと見ることができたのは上記の事が満たされていたものばかりだ。
それらは、どのタイミングで入ってきても、見ることができる。
これは、保坂和志の理想とする小説に近くて、
どの断片を切り取っても作品として成り立つもの
と説明できるかもしれない。

僕の考えでは、
上に書いた以外の映像作品をつくる場合は、展示環境が重要になる。
クレマスターや、ドクメンタ11のヴィル・ヴィオラの作品なんかは、
もう映画並みの長さヴォリュームとなってしまっているので
展示方法も、映画上映と同じになっている。

ドクメンタ11の映像作品は
どれも展示方法が秀逸で、見る人をあきさせない、
見させる展示がなされていて、映像作品が増え続ける傾向にある
現代美術展の中で興味深かった。

極端な例をあげたけど、この二つなら見ることはできる。
この二つの中間に位置するような映像ならば、その対策を考えなければ
ならないだろう。