マシュー・バーニー についての考察。

最近、話題になった展覧会って何があるだろう。
そう思って、art-info.の過去の記事を眺めていたら、
話題になりそうな展覧会情報を見つけました。
マシュー・バーニー:拘束のドローイング展」です。

僕自身、この展示はまだ見ていないのですが、
数年前、話題になったクレマスターシリーズは、全作ぶっ通しで見た事があります。
丸一日を映像作品を見て過ごしたということで、かなり印象に残っているのです。


そんな訳で、マシュー・バーニー
を通してアートについて少し考察してみたいと思います。
マシュー・バーニーといえば、前述したクレマスターシリーズですね。
バーニーが、監督・出演し、全5作からなる壮大な映像作品です。
これだけ、長ければ、映画といってしまってもいいかもしれませんが
クレマスターは映画とは少し異なるのです。
この作品には、ほとんど、せりふがなく、
はっきりとしたストーリーもありません。
出てくるのは、世界各地の風景、建物、
グロテスクなキャラクター、不可解な物体といったもの。
そこから、感じることができるのは、映像が持つ雰囲気、空気感です。
その場の空気感を生み出すために、
出演者や、建物、オブジェは、構成されたのだと思えてきます。
僕は、映像を見て、そんな感想をもち、多くの興味関心を持ちました。

そして数ヶ月後。
ヨーロッパを旅していた際、
偶然にもケルンの美術館で行われている、
クレマスター展を見る機会を得ることができたのです。

そこで、僕が見たのは、映像作品とは異なるクレマスターの一面。
マシュー・バーニーの作家としての戦略でした
そして、作品と呼べる範囲、その定義について考えさせられました。


それを感じさせたのは、美術館の展示形態でしょう。
そこでは、クレマスターという映像作品(最終成果物)はあるものの、
マシューは、そこに使われた、オブジェ、イメージのドローイング、
スケッチ、登場人物のポートレート
その全てを、自身の作品として見せるという方法を採っていたのです。
それらは、スケッチのレベルでみても、彫刻のレベルで見ても、
クオリティーが高く、それぞれが、独立した作品として存在感を持っているのです。

これは、賢い戦略だなと思いました。
映像作品(最終成果物)はあるものの、それを作るまでの断片。
そのどこを切っても作品になっているわけです。
それは、小さな作品の集合体としての映像作品といえばわかりやすいかもしれません。
必要な規模の作品展を作家は、組み替える事ができるのです。
これは、最近の建築家が、スタディ模型を、
作品の用に陳列することと比較して考えることができるでしょう。

また、作品と呼べる範囲、その定義について考えさせられます。
一般的に、作品とは最終的に完成されたもので、
その断片を独立して見ることができる物は少ないからです。
これは、作家自身の意志とも関係するかもしれませんが、
新しい傾向だと言えるのではないでしょうか。

この問題は、前回の記事 で取り上げた事とも関係があるかもしれません。
アートとはなんであるか?
その答えのヒントを与えてくれるような気がするのです。